浪江で100歳まで営農 石井農園 
石井絹江さんに聞く

らら・カフェ 2020冬号(第53号)/ 2020年12月

かぁちゃんのチカラ――浪江の希望に
被災したふるさとを 食と農で元気にしたい
過去をしっかりと伝え、未来に向かって前進する。

 東日本大震災やその後の原発事故で、生き方が大きく変わった人々の思いは図り知れません。間もなくあれから10年…被災された方々の10年もまた、苦悩と選択の連続ではなかったでしょうか。
 福島県浪江町津島で暮らしていた石井絹江さんもその一人です。生まれも育ちも嫁ぎ先も津島です。高校卒業後に就職した浪江町役場をあと1年で定年という時に起きたのが東日本大震災でした。まさに人生における青天の霹靂。予想外の出来事が次々と起きる中で目前の窮地に対応し続けてきた日々…。しかし、浪江のかぁちゃんは負けませんでした。
 今回は、「もう一度、ふるさとを元気にしたい」「みんなと一緒に仕事をしたい」と、希望を胸に秘めて走り続けてきた石井さんに、震災から未来につなぐ思いをお聞きしました。

――原発事故後、浪江町全域に出された避難指示は、平成29年3月末に「帰還困難区域」を除いて解除されましたが、石井さんの自宅はどうなりましたか? 震災当時の様子などもお聞かせください。
石井:自宅は津島赤宇木地区にあり、今も帰還困難区域となっています。原発事故が起きた時、津島は原発から25キロ以上離れていたことで、浪江町の被災者8千人余りが避難してきました。住民1400人ほどの村に…です。当時、私は津島診療所に勤務していて、避難してきた人や薬を貰いに来た高齢者の世話などに当たっていました。その後、津島の放射線量が高いことがわかり、3日後にまた全員が避難。今度は町民も含めた全町避難です。役場職員はほぼ24時間勤務の状態で、人を助ける前に職員がバテてしまうのではと心配でした。その中で若い職員がどんどんやめて行き、それが何より辛かったですね…(涙)。我が家は当時4世代8人家族でしたが、長男夫婦と子どもは新潟へ、年老いた両親は仮設住宅、私と主人は二本松に避難し、家族はバラバラになりました。2年経っても自宅周辺はいつ戻れるか分からないと言われ、福島市で暮らそうと決めました。
――ご主人は津島で酪農をされていたそうですが、原発事故によって大変な思いをされたのでは?
石井:そうですね。震災当時は、乳牛を45頭ほど飼育していました。でも、原発事故のあと、被ばくした乳牛は殺処分するようにという国からの指示で、主人は6月末まで一度も避難せずにその対応に当たっていました。避難する時、主人はじぃちゃん、ばぁちゃん、息子夫婦や孫たちに言ったんです。「自分たちの命は自分で守れ!」…と。その時の緊迫した状況を思い出すと、今でも辛くなります(涙)。
――そんな中で、石井さんはどんな思いで気持ちを切り替えてきたのですか?
石井:役場職員として避難者の対応に当たっていた時、最初は食事も4人家族におにぎり1個とか、お年寄りに冷たいご飯や堅いパンしか与えることが出来ず、温かいものを食べさせたいと思いました。退職したら浪江で自給自足をしたいと考えていた矢先に震災と原発事故が起きたので、特に体に良いものを食べさせたいという思いが強かったです。薬ではなく食事で元気にしたい、添加物の入ったものではなく、体に良い食事を…と。震災の翌年に役場を定年退職すると、飯舘村の渡邊とみ子さんが代表を務める「かーちゃんの力・プロジェクト」に参加しました。仮設住宅に住む浪江や飯舘のお年寄りにお弁当を配達する活動です。私も調理師免許を持っていたので、出来ることで協力しようと思いました。でも、それが2年くらい経った頃、「浪江の仲間たちはどうしているかな…その人たちと一緒にもう一度何かやりたい…」と考えるようになったんです。そして「福島にいる浪江の人たちと一緒に農業をやろう!」と思うようになりました。福島に住むことになっても、やっぱりふるさとを忘れることは出来ませんでした。
――ふるさとを失いたくないという思いが、農園立ち上げにつながったのですか?
石井:そうです。最初は福島市に避難していた浪江の友人に声をかけて、一緒に農業を始めました。でも、それは2年くらいで終わってしまったんです。みんなそれぞれ新しい人生を歩み出し、農業をやめてしまった…。2町歩ほどあった農地が私に任されました。福島市には、夫が新しく購入した農地が5ヶ所ほどあり、そこでカボチャやエゴマを作っていたのですが、一挙に農地が増えたことで、何とかこれを継続していかなければならないと思いました。酪農ができなくなり、仮設住宅に閉じこもっていた夫も手伝ってくれ、福島の友人たちの助けもあって続けることが出来ました。夫は、家族みんなで福島に住みたいと家探しをしていましたが、畑仕事が大好きだったじぃちゃんは震災2年後に93歳で亡くなりました…震災関連死です(涙)。ばぁちゃんは、私たちに迷惑をかけまいと自分から施設に行くと言いました。「お前たちは好きな事をやれ。でも、絶対に人に迷惑はかけるなよ。人に頼らず、何でも自分の力でやれ」と言って…。その言葉に押されて、私は石井農園を立ち上げる決心をしました。「浪江の特産品を福島で作ろう」と。


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