原発事故から何を学ぶのか

らら・カフェ 2017秋号(第40号)/ 2017年9月

道の駅までい館近くのヒマワリ畑。オープンにあわせて満開に。

今こそ「までいライフ」の実践を
ー避難解除後の飯舘村のこれから


 東日本大震災後の原発事故により、全村避難を余儀なくされた飯館村が、2017年3月31日、ようやく避難解除(長泥地区を除く)された。以前、ららカフェ24号(2013年秋)にて「飯舘村の今」を取材した。それから4年後の現在、飯舘村の復興が気になるところである。震災前から「までいライフ」などの飯舘村独自のアピールで一躍注目を集めてきた菅野典雄村長に、この6年間で復興への取り組みをどのように進めてきたか、残された課題はなにかを伺った。

他の災害との違い
 東日本大震災では、飯舘村にはさほど被害はなかった。しかし、続く原発事故による放射能汚染は深刻な打撃を与え、長期の避難生活が続いたことは周知の事である。6年後の今、その心境を菅野村長はこう語った。  「避難生活を6年ほどして思い知らされたことは、原発事故とそれによる放射能との戦いは、他の災害とは異質だということです。

 一つには、百人百様だということ。放射線は色も匂いも、影も形もないので目に見える災害ではありません。私たちは放射能に関してはほとんど知識を得ていませんでした。事故後のそれぞれの人の判断は全く違う価値観を持っており、その中で物事を進めていかなければならないというのは、とてつもなく大変です。  
 二つめは、普通の災害では、復興に向けて「ゼロからのスタート」という言い方をしますが、飯舘村では「ゼロから」ではなく、「ゼロに向かって」これから長い奮闘を強いられるというのが、他の災害とは全く違うところです。

 三つめには、残念ながら、若い人と子どもが戻らないということ。一番難しいのはそのことだとずっと言ってきました。こればかりはこちらからこうしてくれとか、戻ってくれとか言えないわけです。ただただ、一生懸命環境を整えたり、質の高い教育を検討したりして、一人でも多くの児童に戻ってもらうのを待つだけです。」  
 放射能災害は、かつて経験したことのない事例なだけに、地元の行政には苦渋の判断を迫られた。避難に関して、菅野村長は、「放射線のリスクも本気になって考えなければなりませんが、生活の変化によるリスクも考える必要があります。村民の90%の人に、できるだけ村から1時間以内のところに避難してもらっています。」と言う。

 すべての村民を避難させるのではなく、屋内放射線量の低い所に限定した上で、利用者の安全を最優先に考えて特別養護老人ホーム『 いいたてホーム 』を残し、数社の企業にも工場を残してもらった。老人ホームの家族からは本当に助かったという声や、ドローンやロボットで有名になった菊池製作所も、「避難せずに残ったことで今の会社がある。」と感謝されたそうである。

 

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